カレーライスを一から作る

という映画を観た。「問い」に富んだ作品だった。

カレーを作るために必要な食材を1年かけて自分たちで作るという取り組み。畑にタネをまき、田に苗を植え、肉として鶏を育てる。最後には自ら鶏を絞め、一皿のカレーを作り上げる。武蔵野美術大学の関野ゼミでの1年間の活動を記録したドキュメンタリーである。


その始まりから終わりまで、その過程の一つひとつの行為に、問いが含まれていた。


目の前にあるものの背景で何が起こっているのかを問う。


自分たちを生かす食は、どこからやってきて、それぞれの段階では何が起こっているのか。

化学肥料を施した隣の畑では生育が速い。

無農薬無化学肥料の自分の畑は全然違う。

夏になれば、処理しきれないほど田畑には雑草が生えてくる。

土と水のみで育てる田んぼでは、なぜだか生物多様性が豊かである。

食材のほとんど(劇中では化学調味料と塩以外と言っている)は生物であり、その命を人間が食し生きている。そこには一次産業としての担い手がいて、想像を超える仕事(時に差別にもあう)がある。

食材のためだが大切に育てた鶏を、屠ることはできるのか。

生を全うするとは。

食材としてか、ペットとしてか。

根底の命に変化はないが、人間が決める概念によってその生の意味が決められ、生が左右される。

スーパーで並ぶ綺麗な食材たちの背景には、安い食材の背景には、何が起こっているのだろうか。


複合的に組み合わせれば、それら問いは無限にあるようにすら感じる。広がりも無限だ。


この問いは、食だけでなく、どんな世界にも言えること。それが見ようとすれば、目の前の現実だけでなく、その背景にまで思考が及ぶようになる。それは社会を知ることでもある。


関野先生は「社会の中で生かされている。だから社会を知る必要がある」というようなことを言っていた。一から最後まで知ることで、その過程に社会や身の回りで起きていることの仕組みや摂理が見えてくる。


大切なことは物事の見方や考え方。周囲で起きていることに目を向け、背景を察知し、そこから「自分」に問い、社会に「問いかける」ことが、成熟した社会で生きる私たちには必要なことなのだと思う。


この作品には、私自身が「生きるを創る」ために米作りを始めた当時の想いや問いにも共通する要素が多くあった。私もその過程で社会や生き方への様々な視点を見つけ、思考を深めていった。


学問も「問いを学ぶ」こと。教えられるのでなく、問うていくことである。問いの積み重ねから、社会を変える価値が生まれるのだと思う。


SHU.

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